『ザ・ファブル』:邦画の現在地を再確認できる

映画随想録

日本のアクション・エンターテインメント映画の、

未熟さと稚拙さを、如実に表している作品だった。

以前に、渡辺謙がインタビューで

「ハリウッド映画と邦画の差は、決して製作費だけではない」

と言っていたことを、形として、まざまざと見せつけられた気がした。

たとえ、同じ規模の製作費を日本の作り手が持ったとしても、

使いこなせるわけがない…ということを。

(できもしないのに、『製作費が…』とハリウッド映画に

 陰口を叩く日本の映画人を見ると、つくづく虫唾が走る)

まずは、数少ない「良かった点」を探しておこう。

・キャスティング

 岡田准一、木村文乃、山本美月、それと佐藤浩市は

 キャスティングとしては、素晴らしかった。原作愛読者として何の異論もない。

 特に、女性2人は、そのものだった。それだけに、もったいない。

・岡田准一の身体演技

 岡田は、おそらくハリウッド俳優の中に入れても

 アクションが上手い部類に入れる、逸材にちがいない。

 しかし、制作サイドの撮る・見せるスキルがあまりに低い。

 だから、せっかくのアクション演技が、分かりづらく、見にくい。

無数に浮かんでくる「悪かった点」はというと…

・とにかく、演出と音楽がダサい。映画的センスを全く感じられない。

・部分的に良いシーンがあっても、繋がりがスムーズじゃないので浮いている。

・岡田や福士の、動けるアクションが、撮り方・見せ方が下手で死んでいる。

・原作の、必然性のない改変が、ことごとく滑っている。

根本的に、日本の娯楽作、エンタメ作に共通している勘違いとして

「娯楽作」「エンタメ作」を、「お遊び映画」「お祭り映画」だと思い込んでいる。

大人も子供も楽しめるエンターテインメントを創りあげるという

気概も覚悟も、まったく感じられない。

そうでなければ、観客が『ギャグか?ふざけてるのか?』と

憤慨するようなシーンを、こうも量産できるわけがない。

原作である漫画『ザ・ファブル』は、

リアルな絵柄やストーリーの中で

「Fable(寓話)」のように異次元な

殺し屋ファブルの面々がいるからこそ、面白いのだ。

リアルな中に、嘘のような存在がいるから、存在が際立ち、楽しめるのだ。

その基本中の基本が、分かっていない。

だから、ああいう柳楽や向井の演技になってしまう。

(柳楽や向井が悪いんじゃなく、そういう演技を求めて演出した監督が悪い)

(柳楽と向井の、じゃれ合うような喧嘩を誰が見たいんだ…)

だから、ああいうアクション演出になってしまう。

何の意味があって、あれだけの人数を用意したのか。

非現実性を無駄に高めていくのか。

あまりに必然性と納得感のないシーンが続くと、馬鹿にされているように感じてしまう。

暴力団の下っ端の彼らは、薬でも打って、恐怖心を捨て去った

プロの傭兵集団だとでもいうのだろうか。

(盛り上がるはずのアクションで、怒りのあまり溜め息が止まらなかった)

岡田のアクション能力を活かすならば、

グチャグチャのアクション、スローモーションの演出、

暗い場面設定は、すべて逆効果だ。そんなこと、当たり前だろうに。

致命的なのは、「佐藤」が苦しみ、苦戦する演出である。

「佐藤」だけは、どこまでいっても異次元で

散歩するかのように

淡々とプロフェッショナルにこなしていくから、「ファブル」なんだ。

そこだけは、原作を読めば、絶対にブラしてはいけないと、馬鹿でも気づける。

漫画の実写化の場合、重要となるのは「『空気』の再現」だ。

細かな差や、あるいは大胆な変更があっても

作品の『空気』が、原作と映画でブレていなければ、

原作ファンも映画ファンも、すんなり受け入れられる。

個人的に、エンドロールを最後まで鑑賞することが

映画の作り手に対する礼儀だと思っている。

久しぶりに、エンドロールが始まった瞬間に劇場を出た。

(また、エンドロールの入り方が、じつにダサい)

相変わらず長すぎる、上映前の予告集のなかで

シリアス・サスペンスの邦画『新聞記者』と

新海誠最新作のアニメ『天気の子』は、魅力的だった。

結局、やはり、まともな邦画は

暗いシリアス系、サスペンス系か

アニメーションか、に限られてしまうんだな、と

再確認させてくれた『ザ・ファブル』だった。

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